2010年1月13日水曜日

Ústí nad Labemウースティー・ナッド・ラベン町

現在同町は人種差別的人々が強く有色人種が住み辛い地域だと思います。
また人種差別運動の中心地として有名です。
これを証明するのが1998年にMatiční ulicecマティチュニー通りに立てられた壁です。
この壁は同通りに住むジプシーを隔離する目的で作られた壁です。
外圧に負け1999年11月に同壁は取り壊されはしたものの、、、

日系自動車部品工場に勤めていた時代、この町から通ってきている仲良かった当時の同僚との飲み会などのため泊りがけで何度もこの町を訪れました。
その際撮影した写真を誤って紛失したのは残念な事です。

<町概略>
ウースティー県ウスティー・ナッド・ラベン郡の中心都市である同町は、993年頃貿易中心地として文献に記録されています。 1426年にフス戦争で町は崩壊し1429年まで放置されていました。
19世紀に町は産業化されました。採掘と化学産業が主な産業で、河川輸送が重要な運輸手段でした。現在も化学製品、冶金学製品、機械部品産業、織物と食品産業が盛んです。
19世紀初頭に2,000人足らずであった人口は約40,000人にまで急増しました。急激な町の発展に伴い歴史的建造物等は破壊されました。
ウースティーはナチズム運動の中心的町としても知られています。多くのナチズム運動の印刷物がウースティーで印刷されました。
1945年4月27日から19日にかけ町は連合国軍の空襲に遭い民家572軒、アパート2 754棟、その他建造物916件崩壊、死者約500人を出しました。

また終戦直後の1945年7月31日敗戦国となった無抵抗なドイツ人一般市民を虐殺するという卑怯な事件”Ústecký masakrウスティー大虐殺”が起きました。
そして1945年と1946年にかけこの地域に住んでいたドイツ人約53,000人を追放しました。

<主な見所>
◎Nanebevzetí Panny Marie聖母被昇天教会
第二次世界大戦の戦災を逃れ現在に至るゴシック様式の同教会は、1318年に建設されました。
1426年に尖塔等が壊されました。
1530年に修復工事が終了しています。

◎Mariánský mostマリア橋
2850㌧もの重量に耐えられる全長178,5㍍の同橋は、1994年から1998年に架けて建設されたモダンな鉄橋です。
1999年にはECCS (European Convention for Constructional Steelwork)より European Steel Design Awards賞が贈られました。

Střekovストシェコフ城
14世紀に建設された城跡は16世紀にLobkowiczロブコビッ家の所有となりました。
30年戦争で痛めつけられた城は17世紀より見捨てられ荒れるにまかされていました。
19世紀に同家は城跡をロマンティックな姿に修復しました。
同城跡からの眺めは絶景で、同城跡内に有るレストランは若者に人気のデート・スポットです。
2627
Expozice 展示
Expozice II. 展示II
Expozice III. 展示III
Expozice IV. 展示IV
Pohled z hradeb 要塞からの眺め
Restauraceレストラン
Věž 塔
Vstup 入口

◎YouTubeで見つけた町とその周辺案内ビデオ。
Ústí nad Labem


◎YouTubeで見つけた町の近代的側面を紹介するビデオ。
Ústí nad Labem (2)


<リンク>
ウースティー・ナッド・ラベン町役場
Střekovストシェコフ城

<旅のヒント>
鉄道をご利用の際は
Praha hl.n. プラハ本駅及びPraha Masarykovo n. マサリク駅より直通列車が運行されています。
所要時間片道約1時間10分~20分。


映像の世紀(2)大量殺戮の完成 塹壕の兵士たちは凄まじい兵器の出現を見た
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<更新暦>
2009年5月24日、第一編集終了。

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